書道教室のご紹介
はじめに
大人になって改めて気付く書道の魅力、書であなたの個性を表現しませんか?
みなさんは「書道」という言葉からどんなイメージを抱きますか?
〇何となく敷居が高い
〇きれいな文字に憧れ
〇自分にはきれいな字は書けない
そんなことは決してありません
上達法
期間を決め
目標を持つ
効率よく学ぶ
■スタートに何が必要なのでしょうか。
それは「やってみたい」と思ったとき、ほんの少し門を叩く勇気ある行動です。
益田市
当店では益田市内及び近郊の書道教室をご紹介いたしております、お気軽にご相談ください。
益田書道会所属 指導者 (2020・4・1現在)
受講生受付中の教室 月謝は3,000円~5,000円
《書道誌開眼》 教室
岩本悦子 益田市白上町 内田公民館 他
梅津政子 中吉田町 ひばりヶ丘公民館 他
川崎公子 木部町 自宅
豊内由美 遠田町 雪舟橋自治会館 他
豊田賀詞 あけぼの東町 会社
廣田裕子 須子町
城市勤女 中吉田町
《書道誌五風》
佐々木龍雲 須子町 自宅
谷沢双葉 中吉田町 自宅
宮崎洋子 本俣賀町 自宅
吉村清雲 久城町 吉田児童館 他
川崎沙織 木部町 自宅
《書道誌書友》
大畑蒼極 横田町 豊田公民館 他
《書道誌書聖》
吉村春華 久城町 自宅
翆祥堂島根店 書道教室 不言塾 受講生募集!
机と椅子をリニューアルしました
翠祥堂島根店 絵手紙教室 受講生募集!
翠祥堂の絵手紙教室では受講生を募集しております!
期日 毎月第3月曜日(1回)
時間 pm13:30~15:30
対象 一般(10名)
講師 田中 賢先生
月謝 1,000円
不言塾と不言城
4月10日
地元の不言城保存会の方々による整備された道を18分で山頂の城跡に到着。汗はかきましたが景色の良さに疲れもとびました。みなさんも是非、吉川経安の城跡の登ってみてください。
駐車場が無いので日本石油さんにお世話になりました。
3月27日
不言城が在ることを知り〔楞厳寺・りょうごんじ〕さんに話を聞く機会がありました。
不言城
島根県大田市温泉津町福光
不言城が石見吉川氏の居城であったことはまぎれもない事実ですが谷山に初めて築城した年代および築城当時の城名については不明とされてきました。不言城の謂れについて諸説あり、その一つとして「古事記による」という話があります。私も高校時代にこの説の写しを見せていただきました。それによると、古事記の第11代垂仁天皇の第一皇子本牟都和気命の項で「皇子は父天皇に大変可愛がられていたが、髭が胸まで達する年になっても言葉を発することができなかった。天皇は占いにより「物言わぬのは出雲大神の祟り」と分かったので皇子を出雲へ遣わし大神を拝させるとその帰り、邑智郡のとある村で泊まられたその翌朝、空を飛ぶ鳥を見て「くぐ」と言われた。その地が久具という地名になった。(くぐという鳥は白鳥のことです)その後、福光城へお泊りになったらまた物を言われなくなったので、その城を不言城というようになった。(大意)というものです。ですが古事記および日本書紀では出雲大神に参拝のあと福光城に泊まったという記述はありません。
もう一つの説として「楞厳寺記による」ものがあります。これは「古記曰く暦応年中楠判官開城時庶民挙而称不言城」という内容で、この説が正しいと思います。
その理由として古文書に、
1.都治慈雲寺に残っているという平田四郎二十一世の孫平田加賀入道道雲文書に「宮方将軍方御合戦のとき石州は宮方を専らとす宮方より新田楠を指し下し福光物石謂城いまだ荒山にて有りしを、国の押さえの為取り構えける」
2.丸山伝記、第三小笠原又太郎有次郎長胤の項に「このとき宮、将軍の御取り合いあり、将軍方仕赤山城始めて構え天下より御判頂戴、邇摩郡三久須中尾に於いて宮方の楠判官を打ち取り、このときの忠義によって天下より御息多赤山城温湯城安座給うなり」とある。
これらの記述と他の古文書から推察すると、
元弘三年(1333)鎌倉幕府を倒して親政を開始した後醍醐天皇は、全国平定を盤石なものにするため各地に旗頭となる武将を派遣した。
楠木正成の代官として石見国に入部した一族の楠判官は、国の押さえのため福光の荒れ山を削平して物石謂城を構えた。
まもなく起きた後醍醐天皇と武家政権をもくろむ足利尊氏との権力抗争から後醍醐天皇の南朝と尊氏が擁立した北朝とがしのぎを削る南北朝争乱に突入した。
石見においても南朝方国司日野邦光の下、福光物石謂城に拠った楠判官と六年後に入部した新田義氏を旗頭に三隅氏、福屋氏、都野氏、佐波氏ら在地豪族が北朝方石見守護上野頼兼率いる益田氏、小笠原氏らと争った。戦いは、当初は南朝方が圧倒的に優勢であったが徐々に北朝方有利に展開し、楠判官らは絶望的な戦いを強いられていた。そのさなかの暦応年中、北朝方の奇襲を受けた物石謂城は陥落した。
このときの凄惨な戦いから「物石謂城」は「物不言城」と呼ばれるようになった。
以上のことをまとめると次のようになります。
城を最初に建てたのは楠木正成の一族楠判官で、築城当時(1333年から1334年ごろ)の城名「物石謂城」(ものを言う城)と呼び、暦応年中(1338年から1341年)の落城により「物不言城(もの言わずの城)と呼ばれるようになった。
史料について、
平田文書は島根県立図書館蔵の旧島根県史編纂資料 近世筆写編283に収録されている南北朝時代石見記の三郷由来記にあり、丸山伝記は大田市立図書館、楞厳寺記は温泉津図書館にあります。
もう一つの説として「楞厳寺記による」ものがあります。これは「古記曰く暦応年中楠判官開城時庶民挙而称不言城」という内容で、この説が正しいと思います。
その理由として古文書に、
1.都治慈雲寺に残っているという平田四郎二十一世の孫平田加賀入道道雲文書に「宮方将軍方御合戦のとき石州は宮方を専らとす宮方より新田楠を指し下し福光物石謂城いまだ荒山にて有りしを、国の押さえの為取り構えける」
2.丸山伝記、第三小笠原又太郎有次郎長胤の項に「このとき宮、将軍の御取り合いあり、将軍方仕赤山城始めて構え天下より御判頂戴、邇摩郡三久須中尾に於いて宮方の楠判官を打ち取り、このときの忠義によって天下より御息多赤山城温湯城安座給うなり」とある。
これらの記述と他の古文書から推察すると、
元弘三年(1333)鎌倉幕府を倒して親政を開始した後醍醐天皇は、全国平定を盤石なものにするため各地に旗頭となる武将を派遣した。
楠木正成の代官として石見国に入部した一族の楠判官は、国の押さえのため福光の荒れ山を削平して物石謂城を構えた。
まもなく起きた後醍醐天皇と武家政権をもくろむ足利尊氏との権力抗争から後醍醐天皇の南朝と尊氏が擁立した北朝とがしのぎを削る南北朝争乱に突入した。
石見においても南朝方国司日野邦光の下、福光物石謂城に拠った楠判官と六年後に入部した新田義氏を旗頭に三隅氏、福屋氏、都野氏、佐波氏ら在地豪族が北朝方石見守護上野頼兼率いる益田氏、小笠原氏らと争った。戦いは、当初は南朝方が圧倒的に優勢であったが徐々に北朝方有利に展開し、楠判官らは絶望的な戦いを強いられていた。そのさなかの暦応年中、北朝方の奇襲を受けた物石謂城は陥落した。
このときの凄惨な戦いから「物石謂城」は「物不言城」と呼ばれるようになった。
以上のことをまとめると次のようになります。
城を最初に建てたのは楠木正成の一族楠判官で、築城当時(1333年から1334年ごろ)の城名「物石謂城」(ものを言う城)と呼び、暦応年中(1338年から1341年)の落城により「物不言城(もの言わずの城)と呼ばれるようになった。
史料について、
平田文書は島根県立図書館蔵の旧島根県史編纂資料 近世筆写編283に収録されている南北朝時代石見記の三郷由来記にあり、丸山伝記は大田市立図書館、楞厳寺記は温泉津図書館にあります。
不言城
石陽塾
石見州大喜庵記 懐州祖牛 宝永2年〔1705年〕
石陽の地に高津県あり。県、江に臨て好山奇水競ひ争て、画の如し。実に一方の勝概なり。昔、人丸歌仙、松間に月を詠じて化し去るの所なり。又、雪舟禅師、明より還りてこの境を覧て曰く、瀟湘洞庭に類することあり。遂ひに留りて、以って終焉の地となす。是を以て霊縦天下に聞こへて、詞人墨客此に遊びて、以て吟詠せざると云うことなし。 益田市立 雪舟の郷記念館提供 http://www.iwami.or.jp/sessyu3/
石陽塾とは石見の地より明るく楽しい陽の気を発すること
古典から創作まで指導します。
月謝 5,000円~10,000円